更新時の一言・・・大震災後

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平成23年5月21日 の分から


(31日 午前)例の孫ネコたちですが、一昨日ものかげから鳴き声がしてきて・・・プチ引越しで再びタヌキ邸裏に戻ってきたようでした。で、昨日また盛んに鳴き声がしたので見てみると比較的手前の段ボールから出入りを繰り返していて・・・デジカメでその様子を撮っていたのですが・・・入れかわり立ちかわりするネコたちの模様がアレッ?という感じで・・・あとで再生して確認すると・・・


以前みたときには確かに3匹だけだったのですが、こうして模様を丁寧に確認すると三毛タイプが2匹、ブチタイプが2匹いるような・・・。


で、今朝みたら・・・4匹が仲良く一つの箱におさまっていました。このままタヌキ邸に居ついてしまうのかな?????



(30日 朝)昨日は一昨年の夏に土浦に引越しをしたデジモン君がわざわざ水戸までやってきての授業でした。何年も前に彼のきょうだいを家庭教師で教えていた頃はデジモン君はまだ3歳・・・それが今では中3です。「成長」ってすごいなと素直に感動します。

夕方はまゆみ'2002さんが訪ねてきてくれて・・・夜は社会人になっている教え子から「特に用事はないんですが」という電話。特に用事がなくてもかけてくれるというのは今回の件で「やっぱり生まれてきてはいけなかったんだな・・・」という気持ちで一杯の自分の中に違うものをもたらせてくれます。

現代社会は「役に立つか立たないか」が価値基準を決める大きな観点になってしまっています。その結果、例えば社会的弱者と呼ばれるような方々を守るための制度等々は「税金の無駄遣い」などというとんでもないレッテルをはられたりします。そうした政策に使われる予算よりもずっと巨額なお金が一部の政治家や官僚等々に流れたり、利害関係優先の政策が招いた巨額な損失を税金で補填、などという形で使っているのがこの国の現状です。

そんな無駄がまだまだあるのに、震災復興費が多額になるのをいいことにして、さらに生活が大変なひとからも搾り取ろうとする姿勢。自分たちの利害だけで動いているという点では与党も野党もかわりません。

「すぐに成果とならないこと、手間暇がかかること」はダメ・・・そんなことばかり言っていると、結局は本当の力さえ枯渇させてしまう・・・愚かなことです。

昨日紹介したのとは別の本(「図説 江戸っ子のたしなみ」 ふくろうの本 河出書房新社)ですが、やはり江戸庶民の発想についてこんなことが書いてあります。
「急げば三日早く仕上がる仕事を逆に三日延ばして丁寧にやるというのが江戸の職人流」・・・「利益のためなら手抜きもズルもやったもの勝ち」なんていうのは江戸庶民に言わせれば愚の骨頂でしょうね。そんな発想でみんながいたら、結局は自分にも降りかかってくる・・・それを今回の大震災でも教えてくれていると思います。

(29日 朝)しばらく前にブックオフで買っていたのになかなか読めずにいた「日本人なら身につけたい 江戸の粋 野暮な奴・不粋な奴と笑われないために」(植月真澄著 KAWADE夢新書 河出書房新社)を読みはじめました。江戸庶民の生活を「ちょっと美化しすぎかな」と思うほどに熱心に紹介し、「粋な生き方」に現代人も学ぶ点が多いことを力説されています。

ちょうど今朝更新した「先週の学習会便り」も上原先生の語録から「生き方」を中心に選んだものを載せているのですが、生きる姿勢をどう整えるのかは現代人にとってより大切な問題だと思っています。今回の便りで抜粋した「生き方」の観点は真の「落ち着き」へ向かう道へのヒントになるようなものを中心にしたのですが、江戸歌舞伎を心の研究の素材とされていた先生は「江戸庶民の生き様」にもいつも注目していました。そのため児言態の過去の特集でも「子どものなまいき」などがあります。

江戸庶民が生き様を整える基準として最も大切にしていた「粋に生きる」という生活の美意識が伝承されているあらわれが「なまいき」だと。

ただ、私の実感としては最近はいい意味で「なまいき」な子どもや若者がめっきり減ったように思います。これと根底なのが「気どり」や「やせ我慢」という構えを見せる子の減少。「やせ我慢」ではなくて強制的に我慢を強いられて心が壊れていっている子は大勢いますが、やせ我慢は美意識をベースにした自発的な我慢ですから、区別が必要です。

そうした美意識の崩壊は「大人が大人らしく生きている背中を見せる」ということの欠如にもなっています。かく言う私も教え子たちより弱気と言うか生きる気力が完全低下して、とてもみせられたような後姿でないことはこの欄にもあらわれている通りです。

まあそれならばせめて「気力低下」を今の自分の持ち味として、同じように疲れきっている子どもたちに対して同等に共感できるという方向に生かせればと思っています。

今回の震災でなかなか口には出せないトラウマが映像として焼きついている人は子どもたちに限らず大勢いるわけです。特に津波の時に目の前を助けを求めながら流されていくのにどうすることもできなかった体験は、決してその人のせいではなくても「見殺しにしてしまった」というようなある種の罪悪感となっていて・・・自分が生き残ったことを責める気持ちになっている場合さえ多いと聞きます。

まして子どもたちの場合、特に周囲の様子を感じ取って我慢できてしまうタイプの子、自分は心の傷をおっていない・大丈夫という笑顔を見せてしまえる子は逆に深刻です。

その本にもありましたが、江戸庶民の生き様の特徴に「みんなも大変だからこその共感・・・気配り」がありました。今回の震災で言えば、子どもたちだけではなくて大人たちも含めて地域全体が生きる希望も失い心身ともに疲れきっています。だから「子ども(他人)のことにはかまっていられない」という生き方をするのか、だから「より子ども(他人)を思いやる」生き方をするのか・・・。

江戸の町ではないですが、今回の震災で海外の方々を驚かせた東北地方の日本人の生き様はこうした意識が生き様として伝承されていたことを物語っています。「美意識のため」というのを超越して。


ちなみに私より何十歳も年上の知人で「なによそのくらい!私なんかもっとね・・・・」と連発するのが口癖の方がいるのですが、幼い頃からその人と話をするのはとっても嫌でした。「自分から、もっと大変な人がいるんだな、と気付いて自らを励ませる段階」になっているなら別として、本当に落ち込んでいる時に頭ごなしにこうしたことを連発されては余計に落ち込むだけではなくて、自分が如何に情けなくてダメな人間なのかという自己嫌悪にますますなってしまいます。

しかもその知人は自分が少しでも困っているとそれこそ幼児なみに相手かまわずSOSを求めて、周囲が思い通りにならないと不機嫌極まりない。80歳を過ぎた今でも「私の悩みや苦労はあんたらのとは違うんだ!」というように大威張りです。

・・・そんな生き様を小学生の頃から見せ付けられていて・・・まあ、その知人にされ続けてきた事を通して、逆に今「ああいう態度を何十歳も年下の相手に平気でとれるような生き様だけはしたくない」という気持ちに自分がなれているとも言えるのですが・・・・でも、それを感謝しようというほど私は人間ができてはいません。



(28日 朝)ゆうべの社会人クラスは皆さん忙しかったらしく、予定1時間ほどすぎてもほとんど集まらず、最終的には4人でした。ただ、内容はその分濃かったというか、一人一人の発言が多くなって深まりました。

このところの話題は本当の意味で「落ち着く」とはどういったことか・・・そして昨日の話の中心は「極楽のような状態って本当に幸福感あふれる世界なのか?」でした。「何でも望みが実現した状態」が極楽なのか、あるいは仏教が説いているように「煩悩という欲望から解脱した状態」が極楽なのか・・・。

皆さんはどう感じますか???

またこうして話し合いを重ねていくと、各自の考えている基準が様々だということがはっきりしてきます。そして最も大切なのは余程のことがない限り、「どれが正しい」と言い切らない態度です。先ほどの極楽で言えば、「周囲の人々も仕事もお金も自分の思い通りになったらどんなにかいいことだろう」とは多くの人が考えることですが、本当にそれが実現したら極楽状態になれるのかを本気で検証してみる必要があります。

周囲に自分の望みどおりに振舞ってもらうことが実現したとしたら、それは逆に周囲の人たちが自分の望みを押し殺されている状況なのかもしれません。小学生に本音作文を書いてもらっていた頃、よくあったのは「お互いに不満を書いている」こと。いつも仲がよくみえる背景として「それは自分こそがいつも我慢して相手に合わせているからだ」と思っていて、互いに「もう少し自分のことが分かってほしい。時には私の思い通りになってくれてもいいだろう」と不満をつのらせています。

そんな風だとしたら、「周囲が自分の思い通りになってくれている」と実感できる状況というのは、かなり周囲に我慢を強いていると考えた方が良さそうです。そうするとそれがキレた瞬間、お互いにとって不幸な結末を迎えることになるでしょう。

ゆうべの語り合いでは「極楽という名の地獄」とか「極楽と思っている状況は、超待遇の良い刑務所と同じではないか」とかいう意見さえ飛び出しました。

今の政治の状況をみてもそれは言えます。与党も野党も「夢を描いている」というよりは「幻想」を追いかけ共に地獄へ転落していくかのような状況です・・・国民を巻き添えにして。もっともそうした方々を選んでいるのも国民ではあるのですが。

明日は水戸市長・市議会議員選挙です。大雨の予報なので投票率がどうなるか・・・でもよく考えて投票には行きたいと思っています。

(27日 朝)まゆみ'2002さんのお母さんが今年も自宅でとれたソラマメを持ってきてくれました。季節が巡ってきたなと思えます。お勧めは網でサヤごと焼いてという食べ方です。コクが凝縮されているという感じになります。ゆうべは大き目のを網で焼いて、あとのは塩茹でにしました。


ソラマメと言えば有安杏果さんも愛好している絵本があります。ゆうべソラマメを食べたあとに久しぶりに本棚から引っ張り出して読み返しました。おうち気分に浸れる絵本です。


ただ、ソラマメを食べた後だけに、ちょっと罪の意識も・・・・。幼い頃にヒヨコのお菓子を食べる時にも、とっても可哀想で涙を流しながら食べた記憶のあるタヌキですから。



(26日 朝)昨日の朝、震度5弱の余震があったところに住んでいる親戚から別用があって電話がきました。余震のことをきくと「もう震度5くらいの揺れではいちいち驚かなくなった」と笑っていました。どこまで本心かは分かりませんが、震度5なんていう地震もこうなる前にはめったにない大きな揺れだったハズなのですがね。人間の順応性はすごいものです。

もっともそれには個人差があって、弱い揺れでも揺れ始めた瞬間には「強くなるのではないか」という不安で脈まで不安定になってしまう私は順応性が低いです。

今週末は台風や梅雨前線の影響で大雨の心配もあります。教え子の中にはちょうどこの週末に京都に修学旅行の中学生もいて、風雨の影響を心配しています。シトシト雨だったら京都らしい風情も感じられるでしょうが、あまり強い雨では修学旅行も台無しになってしまいますね。

本当は私も京都や奈良にはじっくりと時間をかけていきたいとここ数年思ってはいます。中学や高校で行った頃は歴史もさっぱり分からなかったような状態だったので、本当にただ漠然と連れて行かれるままに何とはなしに見てきたという感じなので。心意伝承などに触れた今だったら御霊信仰だの異界だの犠牲論だのというようなことに関連したところに的を絞って行くでしょうね。

もっとも精神的に極めて不安定な今、そうした特異なスポットにばかり行ったら余計な何者かを連れて帰ってきてしまいそうですが・・・。
(25日 朝)5階建てのマンションの5階の家で授業をしていたあと、ちょうどその家のテレビで津波関連の特集をしていて、海岸沿いにあった4階建ての建物の屋上1メートルくらいまで津波が来たという内容でした。「この部屋の中にいて、このソファーの高さまで水が来た、ってことだよね」と・・・・。5階から下を見下ろせば高所恐怖症の私にとっては十分にゾクッと来る高さです。その自分がいる腰元まで海水が来るというのはどれほど恐ろしい光景か・・・・。しかもその波の中には家や車や人間まで交じっていたわけですから・・・。

助けを求めている人がいたのに自分も流されないように必死で、ただ見ているしかなかったということを心の傷にしている方々も多いと聞きます。家族で生き残った側になってしまって自分を責めている方々も。昨日新聞で見出しをみた雑誌の子どもの心に関する記事を立ち読みしたのですが、どんなに小さな余震でもフラッシュバックを引き起こしたり、パニック状態になる子どもたち、家族みんなでいる人たちを過度に羨ましいと感じ、人間的な心を失いがちになってしまう子どもたちのことなどが出ていました。

昨日も書きましたが、そんな記事や事例を見聞すると他人事には思えない気持ちになります。例え家が今の時点では表向きは壊れていなくても今回の震災、そして余震、さらに母のことに関してのフラッシュバックや、自分を責める気持ちが重なって生じている私自身の様々な状況が、そうさせていることは明らかで・・・・もちろんそんな体験はしないで済むことならしないで人生を送りたいものですが体験してしまった・・・

ならば、それを背負ってどう生きるのが自分を生き切ることになるのか?本当にそれが重い課題です。

(24日 朝)涼しいというよりは「寒い」という状態・・・寝床に入っても思ったより寒く・・・つい思い出してしまうのが3月17日の生前の母と話した最後の電話。震災後、寒さでもかなり悩まされていた私に、その対策としてあれこれ母が提案してくれるために向こうからかけてきてくれたのですが、これが震災後の家の中の現状では実現不可能なことばかりで・・・。

「それが実行できるくらいなら苦労はしないよ」「何であんたはそんなにマイナス思考なの!」「マイナス思考ってわけじゃないよ。本当に今、うちの中や水戸の状況がどうなってるのか分かってるの?」「分かるわよ!」

実はこのさらに数日前の電話の時に、母は「テレビもずっと壊れてて観てないし新聞もとっていないから、地震でどうなっているのかも知らないの。津波でどうなっているのかも一切観ていない」と言っていたので、この「分かるわよ」発言を聞いて「分かるわけないじゃない」と私は言い返してしまいました。すると「もう自分で変えていく気がないならいいわよ。好きにしなさい」と言って電話を切られてしまいました。それが結果としては最後のやりとり。

こうしたことになってからずっとそれを悔やんでいます。助言の内容云々よりも、そうして心配してくれたという心にもっと気持ちがいっていれば、たとえ実行できない助言に対してもウソも方便で「じゃあ試してみるよ」とか言えたのではないかと。

最近になって母が急激に体調を悪化させて動けなくなってしまった時点で、何度か外部と連絡をとれた可能性があったことがはっきり分かってきました。でも何年も前から「延命治療的な入院は絶対受けたくない」と公言していた母は、SOSを発信するよりも、静かに去っていく道を選んだ・・・その中には17日の私との電話のあとで「もう自分の役目は終わった」と感じてしまったというのもきっとあるだろうと思っています。

もしもあの電話があんな形で終わらなかったら、まだ生きている意味があると思って違う選択肢を選び、まだ生きていたのではないかと・・・・4月23日の発見以来、ずっとそうした罪の意識があったのですが、昨夜は寒さの中で余計に体感を伴って思い続けていました。

ある親戚には「それも運命だったんだよ。あんたのせいじゃないよ」と言われたのですが、そう言われてもやはりね・・・。4月23日に発見した警察の方がメモにあった電話番号にかけたものの、東京にいる妹や弟には連絡がとれず、水戸にいる私とやっと連絡がとれて、私が確認のために急きょ東京へ行って対面したわけですが、その確認の役目を私が担ったというのも運命的なのでしょうね。その時の強烈な思い出はこれから一生フラッシュバックとして甦り続ける・・・それが自分が背負って生きていかなければならないこと・・・。まあ、最初に連絡がとれたのが妹や弟だったとしたら、あまりに酷ではあったし、肉親・親族・知人の中で対面したのは私だけというのは、それはそれで良かったんだとも思いますが。背負うのは私一人で十分ですから。

今朝の新聞の雑誌広告欄の見出しの一つに「子どもたちが危ない! 震災ショックで苦しむ心の中」というのがありました。21日にも書きましたが、こんな状態の私だからこそ子どもたちや社会に対して出来る事を模索し続けたいとは思っています。



(23日 朝)
久しぶりに入れ替えアルバムコーナーを更新しました。多少そうした気力が出たのは、もしかしたら久しぶりにつくったお好み焼き?お隣の方が私の家の庭の空いた場所に野菜の苗などを植えてくれるのですが、今年はキャベツでした。それを使ってお好み焼きを作ったのです。


もちろん(?)手入れをしないでそのままなので完全無農薬。うちの庭は基本的には2階建ての家に四方をとりかこまれていますから日当たりもよくないので本当にちっちゃなキャベツにしかならないのですが、モンシロチョウの幼虫はたくさん。もう少しキャベツらしくなるのを待ちたいところだったのですが、うっかりすると人間の食べる分があっというまになくなってしまいます。

虫食いの穴だらけのキャベツで、教え子などに話すと「虫が食べたあとがついてるのをよく食べられるね」とキャベツに限らず例年言われるのですが、「虫も食べない野菜の方が異常なんだよ」と話しています。

もちろん私もふだんは農薬がかけられている野菜を食べているし、売り物として野菜を育てている農家の方々が、この国で売れる野菜をつくるためには農薬が欠かせないことにも理解はしているつもりです。あの虫たちの食欲は半端ではないですから。でも、事実として国の基準を守って育てていても、出荷用の野菜は自宅では食べないという話を耳にしたこともあるし、お茶なんかでも家で飲むのは別に栽培しているもの、というインタビューを聞いたこともあります。

素朴に不思議だと思うのは、今回の震災後に放射能による風評被害で野菜や魚や原乳ばかりか、人間にまで多大な風評被害がありました。ペットボトルの水はお一人様1本、という張り紙もいまだに続いています。そこまで食べ物や人間同士の触れ合いによっての害を気にするのならば、何故もっと一般の方々のレベルでこうした農薬や食品添加物やタバコにはもっと大騒ぎをしないのでしょうか?

こちらの方が確実に悪影響だと分かっているのに、それについては一部の方々をのぞいてほとんど気にしていない・・・不思議な国です。

別に違う騒ぎをあおっているつもりではありません。そこまで健康への不安を心配するのなら、離れた場所での放射能の数値が示す実害よりも、ずっと体に対してダメージを与えているものへも心配すべきなのではないでしょうか。しかもその蓄積量はまさに幼い頃から何年にも及ぶわけですから。

同様に一部の専門家からはずっと前から指摘されている一部の化粧品の与える害。染毛剤などの毒性の高さなども言われているのに、自分だけではなく、幼い我が子の髪も染めて「お揃いなの」なんてやっている母親をみると正直言ってため息が出ます。偏った食事ばかり与える、スナック菓子やファストフードばかりを大量に与える・・・そんなことをしていたら放射能の害が体に出る前に、別の害で体がおかしくなります。

そしてまた、大量に健康被害が出たら・・・例えば髪の染めすぎである年齢になったら極端に毛が抜ける、最悪の場合皮膚癌になる・・・なんてことが起きたとしても、そのとき企業はきっと「想定外」「国の安全基準は満たしていた」等々の言い訳をするんでしょうね。

でも、ここ数年やたらと女性向のカツラのコマーシャルを流していることから考えると、近い将来需要がうんと増えることへの布石、とも考えられなくはありません。

必要以上に清潔・除菌・消臭をあおって過度の洗髪をさせ、髪が痛んだら今度はツヤと潤いを復活させるために商品を売る・・・そうした流れがあるのですから、当然のことながら様々な想定はされていると思って自衛するしかないと思います。

もちろんこれは一例で、他の業界にもあるでしょうね。実際に学者でも、そうした事を発表すると業界から圧力がかかってきて、場合によっては依頼された某団体の方々が現れて命の危険を感じるような脅しを受けてしまうとか・・・。あるいはお金をもらって企業に有利な研究結果を捏造する学者もいるとかいないとか・・・。

確実な証拠もなしにこんなことは書くべきではないのかもしれませんが、若い子ども達の未来のためにも言っておきたいと思います。(このホームページが毎日大量のアクセスがあるページだったら、こんなことを書いている私にも何か圧力がくるんでしょうね。今のところは一日数人のみのアクセスですからそこまでの心配はないでしょうが・・・)

ちなみに私が無農薬の野菜を好むのは農薬云々ということよりも、
「そちらの野菜の方が美味しいから」というのが本音です。健康に関してはいつポックリいくか、あるいは光熱費がとめられてしまうことが近い将来現実味を帯びてきているので、あまり気にしていないというのが正直なところです。放射能にしても薬害にしても、その蓄積が影響として出るまで長生きできる、という想定はほとんど浮かんできませんから。



(22日 朝)今朝も7時ちょっと過ぎに余震。水戸は震度3ということでしたが、特徴としてはガタガタッというよりは大きくゆったりとした感じの揺れでした。その分、家じゅうから「ミシミシ」「ギシギシ」ときしむ音がして・・・またダメージが与えられたという実感に包まれました。今日は久しぶりの完全オフだったのですが、出だしから精神的に躓いてしまった感じです。(完全オフといっても、それは家庭教師の仕事がなく、母関連のことで出かける予定もないという意味で、室内の整理をはじめとしてやることは山積しているのですが)

昨日の昼間は確かに暑くて扇風機をまわしました。でも夕方からは予想以上に涼しくなって、仕事にでることには半そでではちょっと肌寒かったです。こまめに衣服を調節できるようにもっと神経を使わないと・・・心身の消耗の要因のうち、物理的に防げるものを減らすことは長期戦ならなおさら大切だと痛感!

「落ち着き」に関しても「想定外ばかりで先行きの見通しが持てない」から「不安で落ち着けない」という方向になりがちなのが、16日にもちょっと書いたように、「想定外のことが起こりうる」から「常識を超えた試練の乗り越えも起こりうる」という希望にもつなげられるのではないか・・・という発想。そしておそらく日本人は古来からそちらに軸足を置いていたんだろうな、と。

そうした現代人が忘れかけていたDNAがいかにしたら発動するのか・・・マニュアル的に考えたらきっと発動は遅れます。「ハッと気がついたらいつのまにか発動していた」という境地なのだと思います。そのハッと気付くことが起きる生活の中に、先日更新した学習会だよりにも書いたような「多角的知識」といえるものも大事だろうと・・・数学や物理や化学などの理系教科も大いに示唆を与えてくれる・・・

学生や社会人ならばなおのことそうした観点で再確認する時間をとってみるといいと思います。そうした社会人向けの本はたくさん出版されていますから。一般教養過程でも就職試験対策でも趣味としてでも、とにかくそうした機会があったら、義務教育段階や高校の段階とは違った意識で向かい合ってみて欲しいと願っています。(・・・と、社会人クラスでも、就職試験対策を始めた大学生たちにも盛んに薦めています)


あの子猫たちですが一昨日あたりからあの場所に姿がありません。プチ引越しをしたようです。親の三毛は相変わらず裏の窓の下で時折ニャーニャーやっているので、すぐ近くにはいると思うのですが。

(21日 朝)社会人クラスでも「落ち着き」について取り上げました。落ち着きの本義に通じる発言があいつぎました。そんな発言を聞きながら「今の私に落ち着いた状態は戻ってくるのかな・・・」と思ってしまったのですが、常識的なことでは「落ち着き」の回復は望めないと思っています。それこそ「人知を越えた何か」という境地というか落ち着きへの道を内面との対話を通して探り続ける・・・そして、それがやはり震災によって「落ち着きの心」と断絶してしまっている多くの人たちと共に歩み、模索することでもあるのかな・・・・と。

瞬間芸のような時間の短い震度3から4近い余震が昨日あたりも断続的に起きています。規模の大きな余震の前兆でなければいいのですが・・・。「すぐにおさまったから」と落ち着ける人と、私のように脈の乱れが尾をひいてしまう人とに分かれていますが、心の傷をおった子ども達などと心をシンクロさせる上では、私の状態も意味はあるのかなと思ってみたり・・・。さらに言えば、私のフラッシュバックの悩みと同じようなことで、自衛官をはじめとした捜索活動を行っている方々が多くいらっしゃるとか。あまりにむごい状態で発見したという場面が頭から離れなくなって心が耐え切れなくなっていると。そういう方々の気持ちに共感できるのも、逆にいえばあの日以来私も同様のことで苦しんでいるからなのかとも思います。

震災直後に夢の中に出てこられた上原輝男先生の「こんな時だからこそ児言態で・・・」というような発言も、私自身の意識世界の再起動を模索することとつながってこなければ、何十年も積み重ねてきたイメージ研究は何だったのだろうということになりかねません。

もっとも私自身が本当の意味で素直に自分の内面と向かい合わなければ、児言態のことをふまえたつもりでも、ふまえていなかったから効果がなかった、ということだってあり得るので要注意です。それは仏教でもキリスト教でも神道でも「我々こそが正統」と主張して、お釈迦様やイエス様や神々の真意とずれた道を歩んでしまっている団体の過ちと似ています。

今日は本格的な夏のような暑さになるとか・・・そしてまた月曜には4月中旬の涼しさの逆戻りになるような・・・めまぐるしく気温が上下するので体調管理に気をつけないといけませんね。